エッセイ

アンビバレンスな感情で創作論

-万能優等理想キャラの罪とは?-

ひんぐるみりは 文
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2007.7. 追記

もう書いた時点と考えが変わってきました。生きている限りは人間ですから、ナマモノですから、思想という名の好悪や、個人・集団の利害を集積・集約してできた正義感などというものは、変わるものです。
平等にこだわりすぎている点、なにかしら不特定多数の期待を代行する責務が、薄っすらとだけど作者にも作中人物にもあるなあという点…… いくつか意見が変わりましたが、この時はこう考えていたという記録として公開しておきます。
当方が自分のために書いたテキストです。あなたが他人の思想・好悪に興味・関心が持てるような変わった人でしたら、オススメしますけど、さてどうでしょうか。




● はじめに―― アンビバレンス (わたしの矛盾感情)

当方は、超人路線の理想や憧れや夢を、イラストや小説に描いておきながら、実は、ストレートにそれらを求める事には屈折と抵抗があるのです。根本的疑念を抱えているのです。内に陰に沸騰するような感情があるのです。

美 強さ 力 に関するアンビバレンスな感情
スーパーヒーロー・スーパーヒロインへの反発
偉大なリーダー 偉大な英雄への疑念と憎悪


憎悪と言ってしまうと、激しいですが、そうなんです。確かに。 ……暗い情念は、どんな個人の中にもあるものです。
ヒーロー・ヒロインという理想像に対する、当方の複雑な好悪、感情を、語らせてください。(自分のサイトだし、しゃべりたいことをしゃべりたい)


いちおう絵が描ける者にもかかわらず、挿絵なしでテキストばかりの、重量級?雑談文なので、興味をもってもらえそうな見出しから、飛ばし読みなどしてもらえたら幸いです。




 
● スーパーマンすぎる万能キャラには感情移入困難

なんでも出来ちゃうスーパーマン万能キャラに腹立ちますよね。
お釣りが来るほど凄い優等生完璧キャラにです。
え? それほど腹は立たない? ならあなたはノーマルな一般人です。

恵まれ過ぎている者にムカッと来ませんか? 当方はそうなんです。人間できてないですね。ハイ、できてないんですねえ。
どっちかというと劣等生なんです。頭が悪いから、腹が立つんです。

でも、劣等生なんだけど、負けず嫌いなんですね。痛いタイプです。頭のいい奴、強い奴に負けたくない! という異常な情熱と気迫を抱えております。いや、こういうのは気迫とは言わないかー。

愚かですが、人間だからこそでしょう。同タイプのうち、ごくごく一部が、人類の進歩発展に寄与してきたと思います。(ほんとにごく一部ね。)


 
○ 子供の頃から英雄嫌い

冒険活劇の中で大活躍する英雄や、実在の英雄も含めて、小学生の頃から、英雄 というものが大嫌いでした。

とりわけ、賢い優等生タイプの、スーパーヒーローや、スーパーヒロインが、子供の頃から大っ嫌いなんですよ。
空想上の、現実には有り得ない、マンガ・アニメのヒーローヒロインたちに、実在感を感じて、実在の人物のように憎み・劣等感を持つという、なんとも変わった子供でした。

そしてその向こうにいる作者の意志に対しても反感反発を持つ子供でした。そんなキャラを作り出した、思想・哲学・好悪・体質が敵だと、ボンヤリとですが思っていたほどです。

なぜ嫌ったか? 理由は簡単で、ほとんど全く乗れないから。ほんとうに感情移入できないから。主人公たちとの余りの落差に、反発のほうが先に感情に来てしまうんですよね。オレと、向こうの空想世界の住人との、なんだこの差は! という……ブラウン管やマンガの中のヒーロー達との格差に、イスを投げつけたいほどでした。

なぜ断絶を覚えたか? 理由としては、自分が標準以下だったからでしょう。ホント辛い思い出ですが、学童の頃は、同世代の中でいつも下の方の位置だったから。持たざる者の悲しさ。足りない者の悲劇。自分という呪われた限界。生身の体という檻。制限と束縛。出来ないことが山ほどある日常を前に、たとえ空想といえども! 壮絶な格差に、感情移入が出来なかったものです。手に届く感じが全くしない。つながってる感じがしない。隔絶と断絶感があるのみ。

かくして、呪うべき対象になると。発展途上国の住人が、先進国の住人を、「なんであいつらばっかり生まれながらにして優遇されてるんだ!」と、非常に呪い憎むような状態です。努力したって無理じゃんか! というあきらめ。大金持ちと貧乏人の格差といいますか、どうやったって無理。という感情。


 
● 今なおある万能ヒーローキャラ需要


しかしながら、娯楽メディアで、まだ、そういう万能キャラが多く供給され続けているということは、多くの人は乗れる!ってこと。感情移入できる。ってことでしょう。
いやー 信じられないんですが……どこかで手が届きそうな気がすると、錯覚させるキャラ造型や、演出や、説得に、成功しているということですね。あまたの少年少女たちに、数%でもあれ、希望期待を持たせてるんだ!なんて、信じられないですね。

英雄に感情移入し同化することで、優れた者になった、勝者になれたような気分にさせてくれる、一体となったような、擬似体験できるんでしょう。楽しいひとときを与える、快楽主義なものなのでしょう。(で、それらの多くが戦争志向な物語のかたちをとっているのは興味深い。)

英雄という「理想の自我」に仮託できる喜び。それはたぶん正しい向上心だし、辛い日常の現実の中でも、苦しい努力や、修業の時を、未来の自分のために、保証する支えになるものです。

勝者への仮託・同一視は、空想のみにとどまらずに、タレント。歌手。音楽家。スポーツ選手。ノーベル賞受賞者。有名作家など。現実世界の実在するスターに対しても様々にあります。


 
○ ヒーロー・ヒロインの「年中無謬」が現実世界に与えた罪


さて、その万能キャラという妄想ですが…… 一時的に仮のモノとして楽しむのではなく、本気で慢性的に確信し、現実においてもそういうことが出来ると、作者・読者が信じた場合の害について、語ります。


美男美女で超優秀で全戦全勝負け無しって、そりゃマンガなんだし、理想を描くものにせよ、ですよ。主人公は何でもかんでも未来を正しく予測できて、言うことは全て正しく、主人公の選択に誤りも無く、無謬の超越的超人的存在で、その世界にいる他の者は、あとの者はそれに従えって、20世紀の共産主義国のリーダーか!

リアルでは、どんなに賢い人でも、人間が、個人が、いっつも正しいなんて、有り得ない!!

にもかかわらず、こーゆーヒーロー像は少年物を中心に腐るほどあります。いまだ、多くの作家の夢のひとつです。

しかし…… あやまち無き巨大なヒーローを作ろうなどというのは、当方には、理解し難いことです。中学生の夢想・妄想なのではないかと疑っています。空想世界における、中学生的正義感の実現なんじゃないかい? という疑問。

絶対的英雄などという、大アホなものを、まだ世に送り出そうとするか??


大人は知っています。間違いを犯さない人などいないと。 (ま、当たり前ですが。)

議会制民主主義は、独善に走りやすい「サルから進化した知的生物」である人間の特質に対して、バッファーを、安全弁を、敢えて山ほど設けてある。それが大人の知恵ですよ。
(中学生くらいの年代の、独裁制への憧れや期待って、うんざりしますね。美醜好悪なんて、個人の趣味に過ぎないことに無自覚。客観性の無さ。10年ちょっと程度生きたくらいの主観がねえ。ショートしまくった超独善的正義が関の山。好悪を絶対的正義に取り違うことのアホらしさ。)


こういう万能キャラを嬉々と世に送り出した作家の、「年中無謬」という「地上の人間には絶対に出来ない不可能な夢」を、有ると言うことの責任と罪を、問いたいくらいですね。当方は。
間接的に何人も殺しているんじゃないの? オウム事件の責任の一端はマンガ・アニメ作家にもあるんじゃないの。
地上の人間には絶対出来ない無謬性。なのにパーフェクトが可能だと、そんな錯覚を、あるように抱かせることは、無いものを有ると思わせるのは、罪深くないのか? バブルなんじゃないの。詐欺なんじゃないの。
「錯覚させることは犯罪」と、英雄を語ってきた作家たちを、ちょっと断罪したいくらい。

過剰な期待とはバブルですよ。ウソの実力値。
自己の実力を過大に評価し、破綻したのがバブル期の日本なんですけど。(日本式経営は世界一だの、日本人はずば抜けて優秀だの、よくも自惚れられたものだ。)
あるいは戦前の軍国日本なんですけど。(神国だの、精神力だの、よくも自惚れられたものだ。)


 
● 美 強さ 力 への憧れに疑問符


万能キャラに付随する理想の特性三つについて語ります。
飽くなき美や強さや力・パワーへの憧れって、まー、それらを所有することはモロに快楽ですから、自分も、それらをせっせと描いてはいますが、実はですね…… 信じてないんですよ。単純な方向性。幼児的であり、小中学生的な好みであると言える。アメリカンというか、乱暴というか、強けりゃいい、力さえあればいいっていうのはね、子供だから。バカだから。


当方は、美 強さ 力 に対して異常な憧れはありますが、肯定はできない。賛成できない。美 強さ 力 だけで、100%構成された世界なんて、ゾッとします。これはダメな負の気質ですが、破壊してやりたいちゅーくらいの憎しみの、憎悪の対象ですよ。

また、それらへの憧れは、かつてほど説得力を持たなくなってきている―― 少年マンガ誌主人公らの非マッチョ化進行がその証かな。

それらの魅力を中核に置く、プロ作家のみなさんは、この事態を、わかっているんでしょうか?

美 強さ 力 を、ストレートには描いていないつもり。描いてはゆかないつもりです。ある種バカのもの。くだらないものであると、んなもんを求めるのはコドモだと――そういう文脈で語れたなら最高ですね。


美醜で差別しようだなんて、美 強さ 力 に価値の重きを置くなんて、だいたい自分で自分の首を締めるような方向性ですよ。 (当方も、美しくも強くも力も無い者だから、そういう二重性を感じます。)
美(特に顔!)に強烈にこだわるマンガ家たちはそろいもそろって、不細工ぞろい!なのが、その面白い証拠ですね。
主人公たちをやたらと長身に描くマンガ家がチビだったり。
スラッとした長い手足を描くマンガ家はおそらく短手短足。

無いものを空想に求めているんですねえ。自分に無いものを求めている。仮の、仮想世界に、空想の世界に。代償・代理・代用品であることは百も承知でしょうが……
(自分のことも、裏返すように分析しちゃうと、悲しみでもある。)


しかし、冒険活劇は、 美 強さ 力 に呪われた世界ですね。大衆は永遠にそれを望むのだろうか?
変化が始まっているような気がするんですね。アッパーなものってほんとうに需要が無いような気がします。(その路線のものを、自分でも作っておいてなんですが。)

90年代あたりから、徐々に進行しているように思えます。アメリカ文化に憧れなくなったことが、その証拠じゃないでしょうか。ハリウッド映画がダサく見えるようになったのは、 美 強さ 力 が、説得力を持たなくなったのも一因では? (世界市場を意識し過ぎて、解り易さ優先のシナリオが、余りにアホ化したのが最大の原因みたいですが)


反対概念は 渋さ 弱さ ローパワー/脱力 ですかね? 日本的清貧? 茶道的侘び寂び路線かな?


 
○ エンタメ成分だけを享受したい!


エンタメ成分だけを享受したいっていうのに、優れた作品に限って、作者という強者の、演説、説教、主張が激しい。毒入りの菓子みたいなもんだなー。読者には。
ほんとこれは不満でした。エンタメに徹してくれよ!! アンタが頭がいいっていうアピールはどうでもいいから!! (ま、当方も、同じ轍を踏んでいるかも知れませんが…… 一応、エンタメと主張とを分離させているつもりです。)

その主張も、なんやかんや言って薄いというか、疑ってかかれば、善悪がどうこう、命の価値規準はああこう、正義の殺人は可か否か、だいたい中学生的設問で、「問題設定が誤りですね」で済む問題が多。
また、執筆当時の科学知識から飛ばした素人の憶測各種。本来意志なんて持ってない地球や自然を擬人化して、人類を悪だのなんだの言われてもなー 死ぬほどナンセンスなだけですよ。


ただ「娯楽ですよ」「メッセージ性じゃないですよ」と言いながら、洗脳してやろう。影響力を行使してやろうというのが、作家本人の自覚の有無に関わらず、作家の喜び、表現の主目的、支配欲という本能、少年的本心のひとつ。

今の地上の権力には勝てないが、現在を支配するのではなく、若人の脳を洗って、未来を支配してやろうという、エンタメ作家の野望願望ですな。(手塚治虫あたりは大成功していますねえ。多くの人の脳を根幹から洗ったと思います。)


 
● 冒険活劇の世界は究極の「格差社会」 (流行りの言葉を使いました 数年後には使われなくなってそう)


主役クラスと、その他大勢・端役との、格差社会ぶりは、物語世界では昔から強烈! です。平等にはほど遠い世界。もっとも超差別的な世界。
エンタメはそれでいいんです。妄想という提供された枠で、観客がカタルシスを得るための商品なのだから。(非常に思い入れてもらえると、宗教的な場合すらある。ゆえにファンは信者とも言われる。)


が、当方は変人で、格差が有り過ぎるモノって、乗れないんですよ。その他大勢にだって、大切な人生があるわけだし、丁重に扱ってくれよと。主人公ばっか特別扱いするなよと。
「平等でない、この世界の居心地の悪さはなんだ!」 いや、これは根本的疑問で、シナリオを破壊させるようなムチャな疑問。ドラマ至上主義への根本的疑念です。

まー、答えは、「差別抜きには、物語のカタルシスが成立しない。平等に配慮してはドラマは作れない。」 勝者と敗者が確定する過程を描き、語るのが、多くの冒険活劇の中身、内容なのですから。


主人公らの友人知人が死んだ時にだけ、大げさに演出、長尺使って、主人公らの悲しみを伝える。なんだ、この差別は! 一般兵士や、名無しさんたちの、無名人たちの死には、配慮は無いのか! それで、お話の上では、慈悲深くって賢いその世界の有力なリーダーだったりするんだから、ガ○ダム系のドラマ世界の薄さといったら……

たしかに個々人の心の世界、内的世界とはそうだけどさ。シナリオ作家たちやアニメ監督たちが延々選び続ける、この冒険活劇という名の、倒錯と欺瞞に満ちた理想の世界って何なんだ?

冒険活劇での、この程度の普通の演出に、ひっかかり、疑問を抱く当方は、まー、変わり者なんでしょうね。


悪役/アンチヒーローは、もう一方の側のヒーロー。
漫画誌編集さんたちに、大変力を入れて美化されます。愛される憎まれ役の創造は作品の成否にかかわる重要ポイントだそうで。
負の英雄像で、数多くの不遇の人々の夢を、仮託されます。読者に代わり、代理でこの世界に怒りの復讐。不合理で不条理な対する社会・世界に対する暴力と破壊。短絡的憎しみの、ぷっつんショートした訴えを主張。
ロックスターはこのカテゴリーじゃない? 多くの感情をすくって、どれだけ曖昧模糊な不定形の、言語化されていない気持ちを代弁することができるか?


しっかしその他の、三下とかザコキャラとか一般人の扱いがいっつも悲しいな。モノ扱い。作家の本性が見える気がする…… その他大勢がこの社会や世界を支えているのに。見た目だけかい? 人の価値は。中身はゼロでも、スカスカでも、いいのか?
見た目優先の社会風潮に、合わないなあ。中身軽視の時代が長いのう……


 
○ 美化、超人化、神化 を演出する作者の神の手

マンガの世界では、全知全能な無敵状態は可能な訳です。作者の手がナンボでも回る、ウソの虚構の世界ですから。辻褄を合わせてゆくには、結構テクニックが要るものの…… 要は、振ったネタ、伏線を回収したり、あとから設定を追加したりね。神の手って言われる。演出腕力あらば、できちゃう。読者をダマせちゃうってこと。主人公らの美化、超人化、神的存在化は、作者の情熱次第で可能。造形できるんですね。

しかし、「神のような存在を創りたい」という情熱たるや、なんの代償なんだろう? と、嫌味を言いたくなりますね。
ある種の作品には、「へー、そんなに大勢の人を、自分の独善的な考えの下に支配したいのか?」 という、サル的な支配欲が嫌ってほど感じられ、根本的うんざり、げんなり感の由来です。自己主張が激し過ぎる作品に対しては。

何を求め、創作しようとも、別に人の自由ですけど。巨大な善意を持つ作家は特に、他人も自由を求めることに対しては、非常に無配慮ですね。
自分が人に支配されることを拒み、望まぬのに、なぜ他者に対しては平気で支配しようとするのか?

善意の普及を、社会改良の一助を、それをモチベーションにしている賢い作家でも、自由の本質に対して、鈍感なのが不思議なくらいです。(自由の本質については後述。)


 
● 当方が描きたい理想の英雄とは?

愚かであること。賢くないこと。アホな部分、性格人格が、抜けているほうが好き。ちゃんと失敗するキャラのほうが好き。

パーフェクトなキャラへの異常な反感反発。なんでもかんでも正の要素ばっかり積み上げたような、超理想的優等キャラって、失敗しない、常に勝ってしまう、常勝キャラって大嫌いだと、個人的好悪ですけど、さんざか語っているけど、また書いてしまうくらい強烈な感情を持って嫌いなんですねー。

ヨタ話の世界では、常に正解を選べてしまうという能力設定が可能です。けっこうそういう妄想空想を好む人が、以前は多かった。近年減ってきたような気がします。

超・頭のいいキャラってのは、驕り高ぶった感じがして、ズルいですよね。作者のエコヒイキじゃんかい。作者の自己愛、ナルシズムを仮託しているのが見えます。見え見えです。いや、そのために創るんです。異常な情熱で、積み上げてゆくんです。作品世界を。

エリート臭のきついもんには乗れないというのは、劣等感が原因ですね。コンプレックスですね。優生学的な、エリート然としたものが、「格差」が、耐えられない何か。苦痛。断絶――。宗主国に植民地支配を受けている自由を奪われた属国的気分。奴隷にされた! と、感じること。

作品中の一方的な演説や、作者の異常な自信に、脳が重くなる感じ。こっち=読者にも考えさせろ! という…… そういう不満を持つ人は、ある一定数……いや、多数いるものと。



 
○ 強者の独善/共産国指導者たちの失敗

強者が勧める、社会改善案の独善性。心底憎いですな。ちと感情的ですが。

無敵無謬の万能キャラに、現実世界で無謬に挑んだ者たち、本物の英雄・偉人が犯した巨大な罪を連想します。
超・頭のいいキャラに多くの「人民」がほんとうに乗ったら何が起きたか?ということ。

20世紀の共産主義国リーダーたちが犯した大量殺戮・大量殺人の大罪は、結局、人の浅はかな知恵が生んだ独善ですよ。
理性で科学的・合理的な社会を建設しようと、頭のいい人たちが、その当時の知識で、本気で絶対的に正しいと思って実行した大事業の全ては蛮行で、巨大な善意でやった結果が、大量殺人と大量の餓死者の山という、恐怖の結果に終わった、地獄よりも地獄であった、異常な世紀の教訓のこと。

何が理性による革命か? 20世紀の知なんて、共産主義の理想なんて、どれだけ底が浅かったことか! この大失敗を前にして、まだ信じますかね? 個人やごく少数のエリートによる社会改良、革命成功の可能性なんて、ゼロですよ。

小賢しい知恵と知識を誇る奴に強烈な憎しみがあります。人間の知恵なんて、たかがしれてますよ。人類の知識なんて、ぜんぜん足りないんですよ。世に知られている最先端の知識なんて、全部集めたってスカスカだってこと。なぜなら、まだ仮説に過ぎないから。引っくり返される定説を山ほど抱えた、仮の答えだから。一部を知って全部を知った気になるのが根本的問題。にもかかわらず、部分的正解を全体に強要したときの恐ろしさ。

今現在、世に知られている知識を合わせたって、たいしたことはない。将来知られるであろう潜在的な知識の総量に較べれば。

2017年11月上旬の補足 筆者
この時点では左(共産国)だけを言及したので、右(旧・枢軸国)についても書いておきます。

リアルの平成末日本には「反共思想イデオロギー」というものが猛威をふるってまして。
宗教右派あたりが数十年かけて社会に撒いた「ウソ」「デマ」です。非常に偏った「思想イデオロギー」である。
とうに終わった東西冷戦期の置きみやげ。
バイネームであげると「統一教会」は反共の韓国生まれの新興宗教で有名。また反共思想は戦後日本国の政官財辺りの主流の政治思想でもある。

ウンザリです。極右カルト思想のモロモロ、当方から見ればオウム真理教と変わらん。
なのに、極右全体主義者、国家社会主義者、ファシズムの政治思想ふたたび、です。
右の政治思想は、自由を嫌う、統制を好む。

「大日本帝国」はファナティック・狂信的な軍国主義・天皇制ファシズムで破滅した。先の戦争では大敗戦、二次大戦では日本人だけでも310万人も死亡、狂気の「聖戦」で大量殺傷、日本史上最悪の時代。極右・右翼が国を傾けるのは日本史では二回目だ。

「強者の独善/全体主義国指導者たちの失敗」 と右左の両方を書くべきでしたね。このコラム・エッセイを書いたときには極右・右翼の知識が足りなかったもので。
「日本会議」事務局の中枢の極右宗教「生長の家分派・過激派」なんて知らなかった。元右翼学生でだってさ、マジモンの「プロ市民」、今は年寄り。(注:分派ですので、生長の家・本流とは別の団体組織です。本家はエコロジー路線でおとなしい)。極右・右翼の政治イデオロギーはカルト思想です。普遍性が無い。

右の革命思想で、「右からの文化大革命」、人命・人権軽視あるいは無視、差別的強権的破壊的という悪夢のような特徴。
男尊女卑、等、前近代に先祖帰り、再・江戸時代化だ。

極右右翼カルトといえば「歴史修正主義」、過去を平気で改変するのも一大特徴、ウソつきである、デマが多い、政治・社会分野での嘘は現実リアル世界ではやるな、害悪だ。現実は芸術作品フィクション架空の娯楽小説じゃないんだ。勝手な設定など通じない。しかし、平成日本の極右勢力はデマで権力を獲った。

自然の物理法則等は曲げられないし、外国権力の意志を変えるのも困難だが、国内国民の他人の脳を騙すことは出来るという。言葉の嘘で。暗澹、陰鬱。


 
● 強者の独善に苦しめられて育った

強者のゴリ押しする絶対的正義に対し、こんなにも強い憎しみを持っているのは、結局、当方が強者の独善に苦しめられて育った者だからです。
「弱者の疑念にはいつも真実があった」と言いたいくらい、損させられた!という体感的な記憶で、いっぱいです。

中小の強者の、ペラッペラの薄い一面の正義を強要されることの、苦痛。
暴力は悪である。暴力、絶対ダメ! とか、いつでもみんな仲良く。とか、ウソがあってはいけない。常に正直であれ。人類皆兄弟。平和絶対主義。とか、わかりやすいのから、もう少し手のこんだ欺瞞まで、イロイロとね。たくさんのウソにだまされてきたなあ……

優れたリーダーの言うことなんぞに従ったって、底が抜けてる! 人間の知なんて、小さすぎる! ということ。20世紀の巨大な世界史が教える真実は、そんなところですかね。人間の知の限界。たかが知れている。 戦後50年程度で貯めこんだ知なんて、新たに追加された科学知識も修正に次ぐ修正、変更に次ぐ変更で、生あるものは変わってゆくものなのですよ! (あ、演説入ってきた。)

強者が、脳天気に、あるいは本気で、「オレらのようにみんな強くなれば良い」と勧めてくる、それで万事解決すると主張するのが、超大嫌いです。強烈に反発します。

アホでいさせろ! 愚かなままでいさせろ! 人間から愚行を選ぶ自由を奪うな!! ですよ。ややアナーキーでしょうか。何が人間にとって大切かわかっていない。ある一群の優秀な作家達は。
「自由である」ということの真の意味を。
誰の意志にもよらずに、自分で決定できることに究極的な喜びがある。間違っていようが、自分自身の考え、自分独自の選択権・決断に、何物にも変えがたい価値があるのだと。

人は人の言うことを聞きたがらない。ということでしょうか。
現代人は、薄い正義・主張だと判断したら、それ以上ついてこない、傾向が大になってきているものと。


戦後の日本に溢れ返っていた強者の善意なんて、善意自体が一過性の、自分を善く正しい人と証明したいがための、快楽主義に過ぎないこと、中学生的正義感をベースにした思想体系に過ぎないこと、底の浅い自己哲学に対し全く疑いがないこと、等々……不満と怒り、たらたらです。


 
○ 自分を大きく見せる一群の作家

「自分を大きく見せる」ということは、クリエーターにとって、大切な創作の原動力なのでしょう。 ツンツンとした思い上がった尊大なプライドが、クオリティを保証する……
男は特に。異性や社会に対する、優秀性の証明でしょう。

読者はそんな作家に、仮託、同一視、一体感を、持っているかぎりは、自我の向上、底上げ感、が共有できます。
そういうサービスをも含んで提供される商品です。ソフトとは。
その場合は、作者・作品が、頭の良さをアピールすることも、読者・受け手の自我補強材となり、サービスになります。宗教における信者のプライドと同一です。

(ハルヒがハードSFであることをファンは誇るという…… おいおい 萌えアニメ好きでいいじゃん! 正直に認めようぜ。)
(2009.2. 追記) あ〜〜〜〜〜!!!! バカバカ! オレのバカ! 『涼宮ハルヒの憂鬱』へのこの一文を撤回!超撤回! 遅まきながら今頃になって初視聴。感動! とてつもない名作でした。ただの萌えアニメではなく、すばらしい完成度とカッコ良さの、日本アニメ史上に残る革新性をきらめかせた、超理知的な00年代最高のアニメ作品でした。セカイ系の代表作でありながらそれをも越えた位置に到達している点、作り手の皆様方の熱意と志の高さに、ただただ深く尊敬します。過去に当サイトのこの駄文を見て気を悪くしてしまった全ての人々に懺悔します。シャッポを脱ぎます。ナイ頭を擦りつけて謝りますので許して。 『涼宮ハルヒの憂鬱』の何がどう素晴らしく何がどう理知的に感じたのか個人的エッセイを書きたくってしょうがない!


 
● まとめ 作りたいもの

混じりっ気無しに快楽主義オンリーなモノ。純粋にエンタメの本質に沿ったモノが作りたい。
エロだったら、純エロなもの。バカなものだったら、純粋におバカなもの。

余計なメッセージ性は低脂肪牛乳の脂肪分並みに無し!
あるいはボディビルダーの体脂肪率並みに一桁?
あるいはネス湖におけるネッシー含有率並みに控え目にね!


当サイトのエロイラストもエロ小説も、プライドをストレートに補強できるような作品群では無いですし。エロではね、恥だもん。隠すべき愚かさ。 世で禁じられているもの。個人的な快楽追求享受路線は。
でっかい自分を支えるための道具には、証明には、アホらしいというか、そっから抜け出したいというか…… 

悪を気取るほど、頭が良くないというか、アホらしさを感じるというか、「悪が粋」などとかうそぶきたくない。悪は悪ですよ。暴力、殺人、窃盗、とハッキリ言ってほしい。ごまかさないでほしいな。黒い喜びがあると、犯罪行為が大好きであると。当方はウソが嫌いだから。正直だから。


力の神話からの解放が、冒険活劇には必要なのでしょう。おおげさに、まとめて言うと。

ゴリゴリの理想路線からヒーローを降ろす場合、いくつか方向性が考えられますが、愚かさと融合させた場合を以下。

醒めた超人性。枯れたスーパーヒーロー的なもの。
アホな超人。バカな神様。ヒーローなのに超抜けた感じ。加速度的なヤル気の無さ。

そういう点を大切にしたい。造形したい。演出できたらなー という希望・願望。
くだらないんだけど、あったかい、ほっとさせるような……。

先例としては、水木しげる 杉浦茂 星新一あたりが描く脱力シュール系ヒーロー像ですかね。
アレに「憧れの視線」を投入したような複雑な感じの味わいにできたらいいな。


善も悪も、快楽主義でよく使われる材料ですが、それをプライドを支えるための材料にはしたくはない。
善玉悪玉を引っ張り出して、マスコミや物語作家がやるように、善を美化・英雄化したり、悪を誇張、デフォルメして、極悪人・大罪人として語るのは、演出してしまうのは、極度に面白いが、実はくだらないことだと、醒めていたい。善悪は快楽主義的消費のお約束としてコント的に使いたい。といったところでしょうか?

大アホな善と悪とバカバカしい快楽主義。
まったりヒーローと、ファニーでキュートなヒロイン。

旧来のヒーローを、窮屈な従来の任務と責務と期待から、解放してあげたい。より自由にさせてあげたっていいんじゃないの?

偉大なリーダー・偉大な英雄とはまったく正反対な英雄像。大衆の公的期待からは外れた、第三の道というか、脱力主義というか……

なぜヒーローは完全でなければならないのでしょうか? パーフェクト・完璧・完全で無くったっていいじゃないか!
不完全であること。劣化するものであること。不条理な死の運命から逃れられない存在でさえあること。
解放と言ってほしい。それは。


向上なんか、させないでほしい! 我々は、低下したいんだ!


極端な結論ですが、自分自身では、作品において、どこか強烈に求めているものです。
薄い善意、あるいは悪意に対する反発反動ですね。


上記の要素を、自分の分身たちには、まだ少しづつしか描けてませんが…… 以下の点は実行していると思います。


神的・超人的・万能的なパワーを徹底的にくだらないエロスな快楽のみに使う享楽的ヒーロー・ヒロインしか語らない。当方作文のエロ小説群はこの志向・体質に基づき書いています。言わなきゃ気づいてもらえないでしょうねえ。


美 強さ 力 を徹底的にくだらないものにしか使わない。当方作画のエロイラスト群は実はこの思想を基に意図して制作しています。言わなきゃ絶対にわからないでしょう。



以上でこの創作論は終わりです。 理屈っぽくってすみませんね。自分でも整理したかったんで。
自分のために書いてます。あちこち削りましたが長いです。全部お読みになった方には、ありがとう。
倫理体系っぽいものにしたつもりです。今は一個人としてこんな風に見てますよ、ということ。
まあ、でも、変わってゆくものでしょう。多くの人が幼い頃と考え方・感じ方がまるで変わってしまうように。各年代、各環境に応じて、人は自分に都合の好い正義の体系を作ってしまうのでしょう。



 
補足1 小説 ヒット数の少ない原因を自分で分析

小説群のヒット数が少ないんですね。恥ずかしながらその原因を自分で分析すると、
1、読んでもらえないのは特殊すぎるから。一般の性の好みからは外れすぎているから、通りすがりの人にはまず読んでもらえない。
2、ロングテール効果というか、超人系セックスを求める人は、当サイトに来る検索文字列の記録から、ごく少数ではあるが、居ることは居る。ただ彼等の多くには知られていないので、アクセスされないし、読まれない。
3、小説を読んで楽しめるという人の数自体の縮小。若い世代は長文耐性が低そう。ちょっとでも長いとムリ。パスされる。
1〜3が相乗的に合わさり、かくしてヒット数が少ないと分析。う〜ん、がっくし。


また、スーパーマンキャラという、なんでも出来ちゃうアッパーなキャラは、うまく注意して語らねば、受け手側に、感情移入できないと、反発されるだろうなと予想。当方の過去・記憶に起因する体質からしても。
たとえそれが、お気楽なエロ小説であっても。しかし、なんとか感情移入=乗っていただけるものを、作れるようになりたいですな。ゲ○ゲの鬼○郎のように?? エロスな鬼○郎?



 
補足2 イラスト 完全に関する当方のトラウマ


全くパーフェクトで無い当方の、完全である空想世界のキャラに対するトラウマ。

完璧なものが作りたい。
凄いモノを、優れた良い作品を。産み出せるようになりたい。
上手い絵を描きたい!
強烈な願望です。欲望です。美しくないほど妄欲です。醜悪なほどです。よく暗い気持ちになってましたし、今もなります。
男の子だから、競争で優劣を、優位を示したい? 実感したい。誇りたい? 勝ちたいなーなんて、邪心ですね。アホなプライドで、愚かさだけど。うまく回転すれば飽くなき向上心で成功。逆回転するようであれば病的なプライドで失敗。両者は同一。何が二つを分けるのか、当方にはわかりませんが……

作画においては超人的でありたい。
自分でもスゴイ!と思える作品を作れた時は、万能優等理想キャラへの小さな復讐を果たしたような―― それに並ぶものを作れたような―― ちょっぴり狂気も入ってますが、内的世界においては、そうなんです。そいういうヘンテコな満足を追い求めてます。


以上です。

2007.3. 記 (2007.5. 一部削除・修正 2017.11. 追記)



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