快楽主義についてあれこれ考えてみる雑談風エッセイ

快楽は追求するとどうなるの?

-快楽と死、社会と個人のモラルとは?-

ひんぐるみりは 文
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はじめに―― 快楽というテーマから派生して、当方なりの、世界をこういう風に見ていますという感想文になりました。自分の考えを一度まとめてみたく作成。思想の開陳は死ぬほど恥ずかしいのですが、身悶えのあまり、何か様々な体液が出てきそうなほどですが、飛ばし読みで、脳にひっかかるところだけ、興味のもてるところを読んでもらえたら幸いです。





■快楽主義は死
荒俣宏先生の説の受売りですが、結論から言うと、どのような快楽であれ、快楽主義は追求すると、死んじゃいます。限度無く快楽を求めると、最終的には、必ず死が待ってます。極論すると快楽主義とはようするに死です。健康によい、長生きのできる、養生バッチリ、なんていう都合のよい快楽は、この世にありません。


スリル・スピード・セックス――。娯楽産業でよく使われる刺激の、「きもちいいことの三要素」ですが、うまく薄めて提供されているから気付きにくいですけど、これらの刺激の量や快楽の強さを増やせば、命にかかわる危ないモノばかり。

破滅したり、最悪の場合は死んじゃう危険のあることを敢えて人はやるんですね。危ないからこそ魅力なんですね。死ぬことを本能的に恐れることに矛盾してますが。事故による負傷と流血の危険を無いものにして、ある種の全能感やら、能力の拡大やら、自己の生の確認したいという願望や欲求の充足でしょうか。人が刺激を求める根源は。



■スリル・スピード・セックスについて個別に考えてみると――。
スリル――。社会的危険と身体的危険の二つがありますね。身が危ないのは、賭博、違法行為、犯罪、反逆、革命、反社会的冒険行為、リスキーな判断・決定など。体が危ないのは、高所、高速、ダイビング、ロシアンルーレットな度胸試し、危険地帯への潜入、登山、川下り、ヨット渡航等の各種冒険行為。危険があればこそのスリルですが、己の身を危険にさらすこと以上は、勝利ばかりではなく、リスクに応じて、大損、大敗、破滅、落命することだってありうる。失敗、負傷、事故死の可能性だってあるけど、それでも人はやる。おもしろいから。人という種族の繁栄と文明発展には、冒険と挑戦への志向は、遺伝子レベルから必要な性質なのでしょう。


スピード――。子供のすべり台などからはじまって、自転車、急流すべり、ジェットコースター、バイク、車、特急、F1、新幹線、ジェット機、コンコルド、ロケット、そしてこれらを使った各種暴走行為。速度への際限の無い麻薬的追求は、速度への憧れは、スピードを上げれば上げるほど物理法則的に、激突時の破壊エネルギーが二乗で増えていくことを、無視してまで味わいたい強い欲望と快楽。人の目は高速には対応していなくても!(視野が中央部に狭まる。鳥には目が高速に対応しているものもいる。) 事故の可能性は忘れて、楽しみたい。究極的には「自己を超えた力、人という種の限界を超えた力」を獲得する喜び。
(しかしメカに頼るのってどうなんだ? 安易じゃないかという疑念が有ります。)


セックス――。セックスも命を削っている感じが。性の快楽は脳を蝕む感じも。男はやりすぎると最悪の場合、腹上死。そしてなによりも、女性定番のよがりセリフ、「死ぬ」「死んじゃう」に象徴される、セックスの快楽は、死への甘い接近。もしもセックス時の脳内快楽物質の量をどんどん増やせれば、オーバードーズ(薬物過剰摂取死)状態でほんとに死んじゃうでしょう。イッちゃうとはまさにこのことですね。(英語では「ゴッド・カミング」 神様が迎えにきちゃうって、死ぬほどきもちいい状態にも文化の差が有り。)



■男の子は勃起しながら生まれてくる/麻薬
麻薬はもっとも安直に快楽を得る方法で、これは国家が禁じるくらい、量を誤ったり中毒になるとストレートに死の危険のあるもの。脳内麻薬物質とは微妙に差異があるらしいですが。「麻薬のような」と表現されるくらいですから強烈なんでしょう。中毒死の段階ではもはや快楽は無いみたいですが。
(私見ですが、薬物で快楽を得ようなんてのは安直だから嫌いです。当方は薬局薬店のフツーの市販薬も、滅多に服用しないため、軽い頭痛薬でもメチャクチャよく効き現代医薬の威力に驚いたりします。当方にとっては麻薬的なものは“妄想”だけで充分です。)


あと余談ですが、男の子は、出産時、母体から女性ホルモンを多量に浴びる関係で、勃起しながら生まれてきます。また、乳首から鬼乳と呼ばれる母乳も出ます。(いや〜ん、変態。) 黄色がかった乳だそうですが。出産直後だけね。
腹上死だと、勃起しながら死んでゆくということになり、男の生として完結して、まとまっているかな? (腹上死の死体は全く美しく無いそうですが。なんだかな〜。)





■蕩尽と刹那と破壊と破滅が快楽の特徴
快楽=死というのは極論すぎで、「なにもバランスさえ崩さなければ問題ないじゃないか。死の危険のない程度に、適度な快楽を味わえばよいじゃないか。」「死ぬまでやるなんてバカ。命を落とすような快楽追求など意味無し。」と反論される人もいるでしょう。その通りで、多くの人がそうしているでしょうが、しかし、バランスを崩すこと自体に快楽があると、荒俣宏は指摘しています。破滅欲です。フロイト一派ではタナトスなんてカッコよく命名されている死への欲かな?

蕩尽と、刹那的な一瞬の行為、破壊と破滅が、快楽の特徴であると、快楽を本気で求めると生を蕩尽させ死んでしまうとも述べています。

イカれた快楽主義者ほどはバランスを崩していないフツーの人が日々味わっている快楽の裏にも、うっすらとはですが、死と破滅が、毒のようにあることは、覚えておいてください。
あと、もっとキモチよくなりたいという衝動の影には危険が潜んでいることも。






■現代社会の快楽肯定に疑念
現代日本では、快楽主義的志向は賞賛され(資本主義だから?)、俗世では大肯定されています。
快楽は確かに、きもちいいし、おもしろいし、たのしい。
だからといって、無条件で全肯定することは怪しい、疑わしいと思うものの一人です。

タバコでも酒でも美食でも、過度に快楽主義に走れば、不健康になり、寿命が縮み、早死します。(アルコールは実はかなり強いハードドラッグ。ただドラッグとはいえ文化として古くから根付いているし、急に強い規制はできない。下手に縛ると戦前のアメリカ禁酒法のような社会を混乱させる暗愚な事態に。)

「それでもいいや」っていうのも自由です。極太で激短い人生もまた良しと、うそぶきながら快楽に耽るのも。
まー、でも、あやふやな覚悟で快楽に走るのが人間なのでしょう。快楽抜きの人生など「まったくもって味気ない」。生には何かしら快楽が必要です。

健康と不健康の間で、矛盾しつつ、あっちへこっちへフラフラしているのが、我々なのでしょう。快楽で命をすり減らしつつ、快適に健康に長生きしたいなどと、現代人は虫のいいことを言っているようで……。それが普通なのかな。

節制、中道、腹八分目などを守って、バランスよく現世の快楽をたのしむ分には問題も少ない……。

それでも、世間一般の脳天気な快楽主義肯定には……、「快楽オールオッケー」「きもちよければすべてよし」、という安易な感覚とポリシーには…………


あっ! もっとも重要な要素について語っていませんでした!
快楽主義への最大の疑念は、快楽主義は、「死と暴力と破壊」の黒い快楽を多量に含んでいるからです。快楽には、反社会、非倫理、背徳、アンチヒューマンな要素が、魅力の大部分を占めることを、この現代日本社会では、どうもあまりハッキリとは指摘されないですよね。(「笑い」を含めて。)

個々人の快楽主義的行為の無制限な行使は、法や慣習により制限され、束縛されるのには当然理由があります。社会運営上ものすごく問題があるからですね。他人に迷惑がかかるなんてレベルじゃなくて、社会破壊だから。究極的には。つきつめると。個人主義の黒い快楽とは。


その前に「快適」についてちょっと説明。






■快楽の反対概念は何?
これも荒俣宏先生の受売りですが、快楽の反対は「快適」です。快適は、健康と長生き、保養、回復、安定など。生につながるもの。「つまらない、刺激的じゃない、退屈だ。」と、若者には人気が無い年寄り的領域。
荒俣宏は温泉ブームがこれだと言ってました。快適、回復、治癒を求める現代人の老人化?


「快楽」と「快適」の間を行ったり来たりするのが、ふつうの人が取る一般的な選択でしょう。快楽の方へ行きすぎると、よほどの好運に恵まれた者以外、痛い目にあいます。痛さから中庸を覚え、帰ってくるわけです。バランスを崩しすぎると、最悪、破滅したりします。自業自得ですけれどね。
快適ばっかりだと、つまんないですけどね。でも快楽一辺倒は、最悪ですけどね。


「快適」は、平和、健康、保養、養生、といった、一見地味でつまらないものの、現世の生で大切なもの、日常そのもの。大衆娯楽活劇では無縁な要素だけど、現実生活では重要。というか、日常はほぼこればかりで構成されてます。




■エンタメと悪の快楽
「快楽」は、戦争、暴力、殺人、犯罪と、ロクでもないものと結びついていながら、アクション映画やゲームやマンガやアニメなどの大衆娯楽の中で、これからも延々生産され続けるでしょう。おもしろいといえばおもしろいけど、やがて飽きて、うんざり&げんなりな気分になるかな。欲求不満とストレス解消用の仮想体験。動物的本能抑制に対する解毒効果。現世での悲劇に対する忘却作用。それらが必要とされる以上、エンタメ業界での、通俗文化での需要も供給も消えないでしょう。非日常なマンガなものは。


現実世界での無制限の暴力行使には一切反対ですが。(オレって善人だなあ) ですが……、とはいえ、とはいえ……、人を動かす三つの力、「恐怖、利益、正義」のうち、最大のものはなんと「恐怖」なんだよなあ。恫喝目的=抑止力の名で、核ミサイルを筆頭にする各種暴力装置は、この世界からは無くならないだろうと。ああいう奇妙な、恫喝のための、ある種わかりわすく計算のできる暴力装置が無ければ、文明社会は平和を維持できないのだと。ヒトだったからこうなったのではなくって、知的生命はそういう性質を持つものだとしか思えず、しいていえば、本能が、自然が悪い。もしも地球上のほかの生命も、鯨でも、イカでも、鳥でも、トカゲでも、魚でも、人並みの知的進化を遂げたら、似たような愚行をやると思います。動物に本能がある以上は――。自然が「悪」である限り。 全人類が自らの意志で自分たちの遺伝子を組換えるという非倫理的なことでも実行しない限り、有史に現れた理想主義者たちの空想的平和は地上では到底実現不可能なのだと。
てきとうに争い事をやっている状態が、戦争類似行為に一喜一憂しているのが、本能的に自然な状態なのではないかと。

(適度なストレスと緊張が健康を保つ秘訣なのでしょうか。個人においても国家においても。)




■サディスティックな作品は嫌い
個人的にはサディスティックな作品にはげんなり&うんざりです。妄想世界での、ただ痛みだけを与えることを目的とした残酷残忍残虐な暴力描写は、他人が何を妄想しようと勝手ですけど、好みじゃないです。

ただですねー、まちがいなく人の中にある動物的攻撃本能や狩猟本能の部分をクローズアップすると、それに応えたソフトとは、血塗られた残酷趣味になるわけです。本能の快楽原則に従って、そのままに世界を創ると、反倫理的、無倫理な暴力的世界が出現するわけです。
社会をゾッとさせるような、黒くて、危険な、血塗られた世界はあるわけです。個々人の心の中に。

プロ作家のみなさんは、暴力行使の正当化を読み手に説得するのがお上手というか、読者に疑わせないのは、さずがです。主人公側の暴力がそうとう黒くて残虐であっても、弱者の正当な勇気の戦いにしたり、どうしようもないと描写された悪人の当然の排除の為の暴力であったり。

話は急に変わりますが、滅びの美学も、よそでやってろって感じです。これ、なんですかね? 社会的本能の失敗かな? そんな結託なんてたまらない。死の強要でしょう。心中的、破滅的要素は妄想のうえにとどめておいてほしい。妄想的行為を現実でやるという、そんな悲劇は大和特攻や玉砕の二次大戦の日本だけで十分です。

現実社会での快楽原則実行はゾッとしますね。
(当方には2001年同時多発テロの、一方の側から見れば英雄的な特攻死も、快楽原則の産物にしか思えません。)




■無限大の快楽追求は空想のみで
際限の無い快楽追求は空想でのみするものだと個人的には思います。

例えば、当方の大好きな、快楽が強すぎて死ぬという非現実的シチュエーション。
快楽が強すぎて少女が死ぬ。快楽が凄すぎて美女が死ぬ。快楽が強力すぎて美少女大量死。そして復活。そういうファンタジーに強いエロスを感じますが、その理由は、男の子の快楽原則には、「死と暴力と破壊」の要素があって、それは性にも有るよと、強く色濃く有るよと、みもふたもなく言うと。セックスといえばやっぱり「死ぬ」でしょう。凄すぎる快楽を存分に女体に与えて死なせるのって男のロマンで夢でしょう???? (人によるかな?)

人間という種族の、生き物には、放っておくと「死と暴力と破壊」に行ってしまう危険が大いにあるから、ゆえにこの社会には、倫理やらモラルやら法やら規則などが、山ほど必要なんですね。 人工的な縛りがたくさんあるのも、「人が欲しないことを、禁じる必要は無い」から。 ガス抜きと称される「死と暴力と破壊」の擬似体験アイテムが、娯楽産業に幅広くあるのも、……当方のこのページも小さいながらそのひとつだと思ってます。

矛盾するようですが、「死と暴力と破壊」の要素はすべて妄想の世界に封じこめてほしい。これは場末に生きる者の願いです。
(でも中には本物志向の人っているからなあ)

(空想があるからそれに習って戦争や犯罪などの愚行が起きるのか、空想が先か、現実が先かという問題。またフィクションが仮想体験として犯罪防止を果している説。なんだか両面ありそうですが、当方の頭ではわかりません。)

(あと社会の縛りってあくまでひとつの文明集団内だけでのルールだから。他民族についてはそれほど考慮されていない時代に作られた知恵と約束事には無理と限界もありますね。)






■世の中に規則が存在する理由
これだけ快楽を万々歳に肯定し、様々な快楽に流される文明人が、もう一方では、とんでなくモラルにうるさい理由ついて考えてみます。

とてもふしぎですが、これは社会的な本能というか、自己防衛本能と直結し、深く結びついているものです。世の大人が、他人にルールを遵守させたがる真の理由。自分に倫理欠落があろうが、やっていることと言ってることがどんなに違っていて矛盾してようが正論を叫んじゃう理由。

同族メンバーの、構成員の(特に若輩者の)、快楽志向が抜きがたく持つ「死と暴力と破壊」の要素を封じるためです。

自分たちの生活におけるリスク低減です。子供のような本能どおりに自由に好きにさせていたら、世の中真っ暗になるからです。サルのように、欲しければ盗る、邪魔者は追い払う、嫌いな奴は殺る、では、文明社会崩壊です。大人の、老人の、古人の、冷たい理性が産み出したモロモロのモラルは、世間知は必要だから、ずっと文明社会にあり続ける訳です。美徳やら、英雄的物語やら、説教やら、模範的先例への賛美と強制やら、社会的本能にのせて語られたり吹きこまれたりするのは、そうして低年齢層を、若輩者を、びしびし縛っていくわけです。(個々人の中にある社会的本能か自尊心か名誉欲のようなもので規律は守られます。だいたいにおいて。)

が! 法やモラルや倫理は、これからも無知で向こう見ずで血気盛んな若人に破られるだろうし、反動揺り戻しの規制強化や引き締めも、何度も社会で行われるだろうし、法やモラルを破る者の多くは、制裁の対象とされ処分されてゆくでしょう。

そして何より! モラルに挑戦する者、モラルを破る者、モラルから逸脱する者は、「死と暴力と破壊」の要素が必然的に持つ、自壊と自家中毒の要素に、自滅し早死にしてゆくことでしょう。
世間ではこれらを愚かだバカだ何だと、第三者的に気楽に批判するけれども、どうにもこうにも、ヒトの脳がそういう風にできているからです。

社会的高等知的生物としての理性と計算と世間知が足りないと言ってしまえば、それまでですが。(しかしすべてを計算できるわけも無し。また計算づくの人生はおもしろいものでなし。古い世間知もどこまで過去から継承されているのやら。どれだけ消えていったことやら。)


あ〜と、自由主義陣営で最悪の害悪とされ糾弾される「束縛」には、実は縛られることには大変な快楽があります。自由選択とそれにつきまとう自己責任を、上位者に丸投げ一任して楽になれるという大きな快楽が。そうでなければわざわざ新興宗教なんぞに頼りたがる人は現れないでしょう。いにしえから文明が宗教的なものを必要とする最大の理由のひとつですね。古い宗教を迷信的で愚昧だと一概にバカにしちゃあいけませんよ。
(でも、たまたま生まれた場所に由来する束縛は悲劇です。家、地域、国家、民族、人、地球、逃れられないものばかり。現実の生って束縛かな。)




■ファンタジーは好きなだけ死ねる
え〜〜〜〜、長い前置きになりましたが!!
当方作の小説で、少女たちが超越的快楽に非常によく死にまくるのは、上記の荒俣理論にもとづいています。快楽が死と結びついている以上、理論的には、強すぎる快楽授与の結果、死んでしまうのは必然であると。そこで空想世界ならではの、ファンタジーの死すら越えた生の蕩尽、思考実験的ヨタ世界の観光を楽しんでいただきたいというのが当方自作小説の目的です。

ファンタジーは、何度でも死ねるのです。一回限りじゃありません。いくらだって死にたいだけ死ねます。好きなだけ死にまくれるのです。(なんてへんなセールス文句!) 空想の世界ですからね〜。何でもありです。超能力か魔法か神力か、死んでも瞬時に再生できる、そういうウソの世界です。生死を超越した、そういうエロファンタジーの世界があってもいいじゃないか!と了解してください。

でも、まったく現実と違うゆる〜〜〜〜いウソのレベルの世界には、人によっては不快な場合もあるでしょう。だいたい当方も子供の頃、マンガマンガした作品に、「現実と違うじゃないか。こんなもん現実には無いじゃないか。」とよく不満を持ちましたが……、現実とは違うからファンタジーなんです。現実じゃないからエンタメなんです。現実と違う世界だから娯楽になりうるんです。
「架空世界の人物たちは、現実の制約に縛られないだなんて、ずるい。」と言われようが、そういうヨタの、現実ほど詰まっていない、スカスカの、ニセモノの世界ですから。

当方の作品は、「無制限な虚構世界での気晴らし。奔放な想像力による仮想体験。絵や言葉のイメージによる擬似体験が目的」です。

なが〜〜〜〜い文で何が言いたかったかといいますと、当方の、過度の蕩尽的快楽追求路線は、虚構、架空世界でのみ。現実じゃそうじゃないですよ。現実にそんなものを求めてないですよ。空想と現実をごっちゃにしないでくださいね。当方は、ド生意気な現実の美少女に根源的本質的恨みつらみがあっても、現実の美少女が死んじゃえばよいだなんてほんのすこししか思っていません?? ありえない性ファンタジーの世界を、以上の点をふまえて、お楽しみいただければ幸いです。






■おまけ 偽善って何だ??
結論から言うと人間の行う善は全て偽善です。
人の善行イコール偽善です。なぜなら、つねに一部の、部分しか救えない、全体を手当てすることなどできない、奇跡を起こすことのできない、神ではない人は、救済に優先順位をつけることに、「えこひいき」だ「不平等」だと言われようが、神ならぬ人は、そういうものだからです。目の前の不幸と弱者しか救わない、救えないのはしょうがない。世界人類を根本的に救っていないと無理難題を言われようが、何かしら部分的、自己満足的施しであろうが、どんな小さな善でも善行であるといえます。だから「偽善だ」と言われて批判されても、そのもっともらしい批判が本質的に無意味というか、実は的外れというか、無理な要求というか、たじろぐ必要もないですね。


とはいえ、社会の、どうにも偽善っぽい社長さんから、実に根っからの善人らしい人のボランティア行為まで、各種善人を指して、「○○は偽善だ。ゆえに、連中の言うことなどに従う必要はない。」「あんな偽善者の言うことは一切聞く必要は無し!」という論理は非常にずる賢く、説得力がやたらとあって論破しにくい、よくできた高度な詭弁ですね。「そういうあんたはほんとに善人なのか」と相手に証明を迫るのは実に効果的です。
「ほんとうの善」という存在しえないものを巧妙にチラつかせて悪行の盾に取るのは、頭のいい不良に好まれて使われるであろう悪を正当化する理屈は、延々と将来も全世界で数限りなく使われるでしょう……。無自覚に。



では、悪の路線――、動物のように本能に従って快楽のとおりに好きなように生きれば、ストレスも溜まらず、たのしく健康に良く正しく生きられると、脳天気な主張をする人は、ニーチェあたりを筆頭に、古来から掃いて捨てるほど、たくさんいるけど、それは、間違いです。とんでもない錯覚。幻想もいいとこです。よくもまあこんなバカげた理論を、吹聴できるものだと思うけど、それが、若さというか、愚かさというか……。

快楽主義追求は、不健康だぜ。体に悪いぜ。早死にするぜ。ということを、現実はそんなふうにはできてはいないことを、痛みをもって知るわけです。バランスを崩して初めて知る「人の限界」です。
「地上の限界、生の限界」を。
そこまで行っても、社会と世界のせいにするのも自由ですけどね。
放恣な若者の欲望が地上と現実の制約にいかに触れる事か。地上と現実の制約をどれほど無視した甘い願望なのか。
知らないから幸福なのか? バブル的な夢想を本気で信じることは、不可能を知らないことは幸福なのか?

ま、どうでもいいですが。夢みている間は幸福だからよいのかな??




■エロスについて補足
フロイトの説明だと、タナトスの反対がエロスなんだけど、セックスには創造・生産の面もあるように思えます。生と死の両面があるエネルギッシュな行為なのかも? でもこれらについては、当方の頭でまとめられる問題でなし。

支配欲と全能感は金銭欲以上の強い快楽である。などなど……、言い出したら、キリがないか。





以上です。長くなっちゃった。これでも削ったんだけどな。
上記の内容は私見なんでその点、ご了承を。
言葉の上で矛盾の無いようにしようと思っても矛盾が生じるもんですね。
ご意見等ありましたらBBSまでお願いします。

2006.9. 記 (2007.2. 修正)


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